昭和四十九年十一月十六日 朝の御理解
御理解第61節 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をして行くのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな」
お道の信心を頂く者にすべて、まぁ総生神を目指すこと、総取次者を目指すことという様なことが信者信奉者の一人一人が取次者、お取次をさせて頂く信奉者の皆が目指すところは生神金光大神といわれる。いわゆる生神金光大神をめざして信心をさせて頂くのだと言われております。
全く私はそうだと思います。本当に【 】自分がおかげを受けて、そしてそれを自分の周辺に広げ押し進めていくという、そういう愛の奉仕とでも申しましょうか。そういう生き方を神心と言うのでしょう。
自分が助かった、この助かりの喜びを人にも伝えていくというのです。いわゆる今の合楽示現活動に参画するということは、取りもなおさずその事だと思うのです。
ここを一つおかげを頂かなければならない。「真の信心をさせるのが神へのお礼ぞ、これが神になるのぞ」と、ですから神になる為には、ここの処を、真の信心を人にも進めさせてもらう、為には自分自身が真の信心を身につけて真のおかげを頂かなければならん。真の信心には真のおかげが必ず伴うのです。真の信心には真のおかげが伴う。
どのように立派な教えがありましても、その教えを例えば知っておりましても、教えを知っておるというだけでは真のおかげは伴わないと。
昨日、高芝さんの御親戚の方で前からお参りしたいと思うておったけれども機会がなかった。それも主人が大変な仏教の熱心な信者である。もうそれは、仏教のことならそれこそ、ま、お坊さんも勝たん位に詳しく研究もしておられる。 ですから金光様というても、もう耳もかさない。それでも次々に困った事やら難儀な事やらがあるから、高芝さん達の話やら高芝さんの御一家が皆信心されますから、話を聞くにつけても一辺お参りしたいという<願い>を持っておられた訳で、昨日あちらのお母さんがお導きをして参ってみえられました。
だから信心は只詳しくなるという事じゃない。どんなにキリスト教が世界の大宗教だ。仏教だそうだと云うてもだからもうそれこそ教典というか、バイブルというか、いわゆる一杯たくさんの尊い御教えを持っておる。いわば大宗教でありましてもです。例えば、それをそら暗記しておりましてもです。これが真の事だ、真の信心だと云うても真の信心が身につかない限りは真のおかげは受けられんのです。
そして私はきのうの朝の御理解を聞いて頂いたんです。どんなに立派ないわば、そこに電車があってもその電車に電流が通うてなかったら、その電車は動かないのです。
その電車に乗ったつもりでおる。もう自分は一かどの大信者であると思うておる。それではおかげの方が伴わない。もちろんそれで「真の信心をさせるのが神へのお礼」といえる様な事をできるはずもない。
いわば、生きた信心には生きたおかげが現れる。いわゆる電流の通うた電車ならば乗っておけばどこどこまでと云やあどこどこまでチャンと乗せて行ってくれる。
昨日の朝の御理解を聞いて頂いた訳です。なら金光様の御信心を頂いておってもそうです。金光教の信心は真の信心だと、確かに真の信心である。けれども真のおかげが現れていないならば、それはただ真の信心を知っているだけで真の信心を身につけていないと云わなければならんのです。
真の信心が出来たら真のおかげは、絶対です伴のうてくるのです。どんなに素晴らしいことを言うておってもおかげが頂けなかったら、それは知っておるつもり、分かっておるつもりで、ただ電車のただ形だけの電車に乗せて頂いておる様なものです。いわゆる自己満足だけなんです。信心しとるね。真の信心をしておると思うておるだけでは真のおかげは現れない。真のおかげが現れなければ人に伝えるというても生き生きとした伝わり方が出来るはずがないのです。
昨日四時の御祈念に併せて末永先生のお爺さんいわゆる壱岐の教会の初代の昨日お立ち日であった。前々からお願いがしてある。別に式年という訳ではないけれども毎年おじいさんのお立ち日には思いを込めて末永先生が霊様への奉仕をなさる。本当に感心する。今年もこちらに弟の紀久男さんとそれから【 】にみえておりますのが妹にあたりますから孫たち三人がもちろん教会の事ですから、壱岐の教会ではそれぞれにお祭りなり霊祭が仕えられておるに違いありません。
けれども末永先生は末永先生の立場で兄弟たちに話し合ってお祭りを仕えてもらう。兄弟たちもそれに皆心を入れてそれぞれにお供え物なんかも準備させて頂いての昨日帰幽祭りであった。帰幽いわゆるお立ち日ですから。ささやかながらも思いを込めて出来た。お祭りを仕えさせて頂きながら頂いたことなんですけれども、童謡にね。[ちょうちょ ちょうちょ]という歌がありますね。[菜の葉にとまれ 菜の葉があいたら 桜にとまれ]なんかそんな歌ですね。ちょうちょが花から花へ飛んでいっておる様子を童謡にした子供の歌であります。たとえ霊様にしたところで神様にしたところで同じと思うんですけれども、いわば、心に喜びの花を咲かせておるところに飛んでいかれるということです。
例えば、末永初代の先生の孫たちが、いくらもおりますけれども、その孫の中でも本当に真心の喜びの花を咲かせておるところに、ちょうちょうは飛んでいく。神様でも同じこと。いわゆる、真心真でおかげの受けられない事はないというのは神様がそこに飛んでおいでられるから、おかげになるのです。 霊様がそこえ飛んでいかれるから花から花へと真心から真心を求めて行かれるからおかげを受けるのです。おじいさんの、いわゆる霊様が一生懸命信心修行が出来ておる孫たちに対してです。本当にその孫たちのささやかなるその思いをね、もうお祭りはうちで出来ておるからというのじゃなくて、やはりやむにやまれん、どうとかそうさせてもらって形の上に現してね、お祭りしてもらわなければおれないというような心の状態に霊様は動かされる。それを大変な喜びの姿を花から花へ蝶が飛んでおる姿をもって示して下さったんだと思わせてもらった。
ところがそうして信心をいよいよ進めていっている孫たちにです。ならより本当の信心を求めて欲しいという<願いの元>[が]かけられるのです。
そこに信心を進めていこうとか思っていない者の上には、例えば、お気づけも現れないように、それからまたお礼させて頂いておりましたら御心眼に頂いたのが『丁度ベニヤ板で作った壁のようなボーンと突き当たったらはずれるような感じのベニヤ板の壁に末永先生が、あの黒衣を着てタスキがけしておる。そして袴の前立ちをまくって何か御用する時の様子をしておるんです。タスキがけで袴の前立ちをこうとってそして御用する時の様子をしておるけれどもただ腕をこまねいて壁に寄りかかっておる』という感じのところを頂いた。
いうならば見かけだけは一生懸命仕事しているごとあるけれども、そんなのがありますよね。見かけだけはもうてんで肌着で頑張っておるごとあるばってん、何もしよらんというのが、こんなに見苦しいものはありませんですね。仕事しよるような風采だけしておって、実際はしよらん。だから私はその事を【 】に聞いてもらったんですけれども、あの弟の紀久男さんもいつまでも【 】ではあるまい。
末永先生達夫婦もいうなら大きな願いをもっておる事でございますから、今の合楽では表行ということを致しません。いわばもうしてはならんという事になったもの。以前は夫婦ともちょいちょい断食修行やらいろんな修行を致しました。表行を。だからしかも断食修行をするからには何日間といったようななまやさしいものではなくて、神様からお許しを頂くまでといったように十日も十五日も続けるような事がありました。 それも一大発心しなければ出来る事じゃないです。お食事を食べないということですから生たいていな度胸では出来ません。だからそれくらいな度胸でです。今合楽で求められているところの修行。いうなら末永先生が求められておるところの修行。それもやらん気じゃない、タスキがけじゃあるし、袴も前を取っておる。けれどもただ壁を背にしておるということ。壁の方へ向っていないということ。
壁を背にしておるということでは、壁はそのいうなら壁を打ち破ることは出来ない。よく心の行き詰まりなんかの時に申します。仕事の行き詰まりでもそうです。壁にぶつかったとこう申します。それが鉄筋コンクリートかなんかの壁にぶっつかっているなら回れ右をするより他にありませんけれども、それこそ体当たりでドーンと行きゃあその壁は突き破られるような感じなんです。
ベニヤ板で張った壁ですから、ここの所をね一つおかげ頂いていかなければいけない。その壁をいうならばぶち抜いていかなければならない。お互い信心させて頂いておる、これはね、本気でおかげを頂かなければならん。けれどもどうもそこの所の壁がぶちぬけられないという人はやはりそこに一大勇猛心を出さにゃあいけません。こんなことじゃいかんと思うておるけれども、こげな事じゃおかげ受けられないと思うておるけれども、そのおかげを受けられないのが分かっているけれども、そこにふんぎりがつかずに次の信心に、いわば飛躍できていない。進んでいけていないということはです。
いうならば昨日のおじい様の霊様も、そこのところをもう一頑張りしないかと言っておられる様な感じが致しました。いくら言うてももういうことを聞かん。いうことを聞かんというか、そういう信心の体勢を取っていないならね。いうならばタスキもしとらん、袴の前立ちもとっとらんといった様な状態ならばです。そういうお知らせは頂かないと思います。
その証拠には、その前の日に久富正樹さん所の霊祭がありました。そりゃもうただただ喜びばっかり。褒め讃えるということばっかりだった。昨日聞いて頂いたでしょう。ね。本当にやむにやまれんという思いで、親の霊様の霊祭をした。あれこそが真だというところまででしたね。なら正樹さんが本当にこげん事じゃいかんというて信心を、いわばする位な姿勢を取っているならば、まだ次の御理解があっただろうと思うのです。
今の正樹さんに【 】体当たりでぶっつかってこんかというても出来ません。今は出来ませんこの人の場合は。だからそれは又、時節を待て、また本気で本人がこげなことじゃいけんと気付いた時に頂く御理解で【 】進にも進。それこそ生神を目指しての。同時に取次者としての先生達の信心によって多くのたくさんの人が真の信心になっていかなければならない。 そして自分は神を目指して行かなければならないという、そこにあるからいうなら霊様に対する真心一杯の、そこに花から花へという真心を尊ばれ喜ばれた姿は、そこに表しておられるけれども折角のそういう真心の信心をもう一つ前進しないか。もう一つ今のお前達が行き詰まっておる。行き当たっておるところの壁をぶち抜く元気な心をしないかと末永先生に【 】ておられるのです。だからここに今お参りをなさっておられる朝まいりでもなさる。
皆さんの場合なんかは、やはり末永先生と同じ事が言えるのじゃないかと思います。せっかく朝参りをさせて頂いておって本気でその日々の教えをね。家業の上に表すことの出来ない、例えば、人がおるとするならば本気で教えを行じないから、守らないから、ただ朝参りをするだけが能じゃないぞ、ということになるのじゃないでしょうか。
例えば、久富正樹さんの場合は月次祭なら月次祭だけしかお参りが出来ない。そしてああ言うおかげも頂いておる。そして皆さんも御承知のようになかなか人柄も素晴らしい。親に対する思いなんかも実に切実に、もう親孝行の心を一杯もっておる。それでも信心がまだタスキ掛けでない状態の時に、さータスキを掛けないかというてもですね。まぁーだ言うても聞かないのです。
だからそういう人に神様が次の信心を目指せとか、次の信心をという風にはいわれないと私は思うです。朝参りをさせて頂いておかげ頂かなならんいう人ならば、せっかく朝参りでもさせて頂いておるならば、今行き詰まっておるというか、行き当たっておる信心の壁でもよし、事業の上でもよしそこに壁を感ずるならばです。それをその一つ壁に背を向けずに、まともにそれにぶつかってそのね。ぶつかれば通れそうなそのベニヤ板のようなもので出来とる壁ならばです。ぶつかることが出来るのです。ぶっつかって向こうに進んで行けるのです。そういう様なものをです。私その御理解を頂いて思うた。ね。
本気で信心のけいこをさせてもらわにゃという意気込みを、例えばもっておってもです、本当にもう一押しばってんね、というような場合、やはり神様もはがゆい思いをなさるのじゃないだろうか。そこで腕こまねいて考えておるような事じゃなくて壁に背を向けるのではなくて、そこをいわゆる正面切って壁にぶっつかればこの壁は通り抜けられるのです。
そういう場合が皆さんの場合にも沢山ありはしないかと思うのです。総生神を目指すとか信奉者の一人一人がお取次者であるという位な自覚を持ってと、そして真の信心を身につけ真の信心のおかげを頂いて、それを人に伝えていくという程しのことでなからなければ、神になるということにはならない。「それが神になるのぞ」と教えて頂いておる。だからいわゆる生神を目指すところの信心をお互いさせて頂いておるのです。
もうこれ位でよかよかという位のことであっては、いわばおかげはそこまでです。進むからこそいうならば信心を進めていくからこそ、また分からない所も出てくるし迷いもでてくるのです。だからその迷いを打ち抜くという生き方、ここまで頂いたけれどここから先がおかげが受けられない。信心が堂々巡りをしているから。ここからの信心を頂く為にはです。いうならばその行き詰まっているというか、行き当たっておるその壁をぶち抜いて行かなければいけない。そこから私は神になるという信心が分かってくる。神になるという信心が体得されてくると思うのです。
神様へのお礼であると同時に「それが神になるのぞ」とまで教えて下さるのですから。例えば、金光大神がいつまでも尽きぬおかげを話にしておくと、朝参りをさせて頂いて毎朝こうやって皆さんは御理解を、尽きぬおかげを受けておられるのです。だからこりゃこげな事じゃいかんなぁと思うて【 】みたけれども、まだ本気でその事にぶっつかって行こうという、もう一押しというところの信心が出来ていないような方達の為に今日の御理解を聞いて頂いたように思います。
だからそれ以下の人、もう例えば、金光様の信心をしているというだけでね。特別にです。そげん生神様やらならんでいいとかね。そげん取次者先生にならんでもよかけんでという人に今日の様な御理解を頂くはずはありません。みなさんの場合は、そこん所をひとつ目指しての信心にならせて頂いて、それを周囲の方達に聞いてもろうて自分が先ずおかげを頂いて、おかげの見本をひっさげての合楽示現活動でなからなければならない。
その合楽示現活動こそです私は「人に伝えて真の信心をさせる」ということが、そういう様な事である風に思います。同時に神様への神恩報謝の心、いわゆる神様へのお礼心、頂いているおかげをおかげと分からせてもらう時にですね。お礼の心をもってそれが出来るということになった時、ね。例えば示現活動、示現活動と最近言われるけれども、どうもまぁだ勇気が出らない。人に話すだけの勇気が出ないという人は、必ず今信心の壁にぶっつかっておるのですから、出来ん出来んと言うたって出来ることも出来ない。
だからそのぶっつかって行ってご覧なさい。それこそ本気で示現活動をなさっている方達が皆口を揃えて言われる様に、もう神様がちゃんと示現活動をさせて下さる為の前後に御用意を下さっておるという意味のことを、いうなら申しておられるのでしょうが。
だからそこを一つ壁をぶち抜かなければ、人にお話をするような勇気、おかげを受けておりながら、それを話す勇気が生まれて参りませんね。どうぞ